六杯のイカ

当サイトでは、著者ぼっくりが実際に買ってよかったモノや気になるモノなどの紹介に、一部広告リンクを使用しています。

 最近は小学校の同級生と遊ぶことが多い。この日は、ナガチャン・ニシモ・ダッチョと俺の四人で、京都市の北、花背に川遊びに出かけた。バーベキューが主な目的だったのだが、その用意をしてきたのは俺だけだった・・・。ニシモの不注意運転に皆して冷や汗をかきながら途中で肉などを買える店を探したのだが、ぽつぽつ見つけた店で売ってるのは調味料や乾物ばっかりだ。こいつは困った、とさらに30キロ先にある大型スーパーに向かう。田舎ならではの距離だ。
 途中で、この辺に住んでるはずのブッコという奴のことを思い出し、そいつに会いに行くことになった。ブッコは小学生のときのサッカー仲間で、小5のときに京都市を離れて家族で花背に移り住んだ。数年前にも会いに行ったのだが、その時はおばちゃんしか居なくて「ブッコは今オーストラリアに住んでいる」と聞いていたので、会えるかどうかは分からなかったのだが、とにかく勢いだけで家に行ってみることにした。ブッコの家は茅ぶき屋根で、台所は薪で火をたき、居間には囲炉裏があって、庭先に五右衛門風呂があるという、日本昔話のような家だ。迷いながらようやく着いたのだが、留守のようだった。
 仕方がないので、帰り際にまた寄ることにしてスーパーに向かった。そこで肉や魚介類を買い、ブッコの家の近くの川原でバーベキューをすることにした。ナガチャンとニシモが早速海パンになって川に飛び込んだが、唇を青くしていかにも寒い!という顔をしていた。ナガチャンはスポーツジムのインストラクター、ニシモはガキの頃から野球一筋で今もレントゲン技師の仕事をしながら野球チームに所属していて、このやたら筋肉ムキムキの二人」が寒い寒いと叫びながら巨大な水しぶきをあげているので、釣りをするつもりだった俺はしぶしぶと釣り道具をバッグに仕舞うのだった。ふとダッチョに目をやると、何もせずボーっと川を眺めていた。ダッチョはアウトドア専門店で働いていながら、アウトドア嫌いの変な奴である。それでもバーベキューの用意を頼むと、瞬く間に火をおこしてしまった。さすがである。俺はその横で魚介類をさばく。遊んでいる二人が川からあがってきて開口一番「寒い、焼酎くれ!」と言い放った。その二人に4リットル入りの麦焼酎を手渡すとガバガバ飲みはじめ、酔ってきたのかバーベキューの用意をしている俺たちにイタズラばっかりし始めたので、二人には水遊びを命じた。
 京都を出発したのが昼の3時頃だったので、いい具合に夕焼けの時間になってきた。ダッチョと俺はぶつぶつと談笑しながらイカを焼き、焼酎をちびちび飲んでいた。気持ちいい風が川原に吹いている。イカの匂いに誘われて、ぴちゃぴちゃ川遊びをしていたニシモとナガチャンが帰ってきた。そのタイミングを見計らって俺は、今日のメインディッシュ「輸入牛肉3キロ、半額見切り品」を投入、網を囲む皆のボルテージが一気に上昇した。宴の始まりである。
 さっそくニシモが割り箸を振りかざし、自分の肉を確保しはじめた。負けじとナガチャンがまだ生焼けのイカにかぶり付く。ダッチョが自分のバッグからこっそりとウインナーを取り出したのを俺は見逃さず、すかさず奪いとり網にぶちまけた。ダッチョはやけっぱちになって俺のもってきた太鼓を叩きはじめ、その間にも焼酎はどんどん減っていくのだった。
 皆の腹がだいぶ落ち着いて、修羅場は過ぎたな、と判断した俺は自分のバッグに忍ばせておいた明石ダコの刺身を取り出した。しかし草の陰でダッチョの目が光り、すぐ奪い取られて皆の酒のアテと化した。だいぶ雰囲気も穏やかになって、うまいうまいと皆がタコを頬張る隅でナガチャンの様子が変だ。どうも焼酎を飲みすぎたようだ。4リットルの焼酎ペットボトルを見ると、もう残りわずかになっていた。しかしナガチャンは横たわりながらもニタニタ笑って口だけは止まらない。なんだか幸せそうだったので、ナガチャンはしばらく放置する方向で法案は可決された。

 ダッチョが急に「ブッコ!!」と叫んだ。「あっっ!」と皆が続いて叫んだ。すっかり忘れていた。もう夜の8時だ。田舎の夜は早い。早く会いにいかないと、ブッコは寝てしまうかもしれない・・・となんだかブッコを馬鹿にしたような意見が飛び交い、すぐ撤収してブッコの家に向かうことにした。
 イカを食い始めた頃から、運転手のニシモには「水をがぶがぶ飲むように!」と命じていたが、本人はまだ不安なのか、酔ってない時より慎重な運転だった。ナガチャンは後部座席でニタニタ笑いながら体を車の揺れに任せている。ブッコの家には数分で着き、家には明かりが燈っていた。
 俺は車から降りて家の戸を叩き、酒臭い息でブッコを呼んだ。出てきたのはおじちゃんだった。
 「ナミト君の小学校の同級生です、ナミト君いらっしゃいますか?」と俺は言った。ナミトというのは、ブッコの本名である。おじちゃんも酔っているのか体を左右に揺さぶりながら「ナミトか?ナミトなら今は京都市内に住んでるよ。もうすぐ子供が生まれるからナミトもお父さんよぉ。」と、満面の笑みでおじちゃんは言った。車からのそのそと這い出してきた三人もそれを聞き、また皆のボルテージがあがった気配を感じた。おじちゃんからブッコの電話番号を聞いてその場で電話してみると、ブッコはすぐ電話に出た。声は小学生の頃とちっとも変わってなかった。皆に電話を渡し、少しずつ話した。もちろん今から会いにいく雰囲気になっていった。おじちゃんの「飲んでけ!」のお誘いを丁重に断り、すぐに京都に向かった。

 待ち合わせ場所に現れたブッコは小学校の頃の記憶のまま何も変わってなかった。ブッコを乗せて、車は飲み屋「天国」に向かう。店に入って早々の質問はもちろん「ブッコ今まで何してたん?」ってやつだ。しかし、その答えにはビックリした。
 高校を中退してオーストラリアに渡り、語学の学校に通いながらサッカーを続けていて、プロになりたくてチュニジアに渡り、そこでプロテストを受け見事合格、2年契約でチュニジアのプロリーグで活躍していたのだ。俺らのサッカークラブの仲間からはプロが2人出ていた。マサは京都パープルサンガを経て今は群馬のFCホリコシというチームでプレイしているし、ノックンはつい最近まで水戸ホーリーホックの選手だった。幾度となく対戦した同世代の松井大輔は今イギリスのマンチェスターで活躍してるし、負けん気の強いブッコは「自分も活躍したい」と思って海外に渡ったのだという。そのチュニジアでは活躍はしたもののチュニジア人と日本人との身体能力の差で自分に将来性がないことに気付き見切りをつけ帰国、今はBMX(自転車)の世界でプロ契約してメシを食ってるという。日本のBMX界は、年間ランキング22位以内の選手しかプロ契約できない厳しい世界だ。ブッコは今ランキング15位だという。俺もレース競技で自転車競技界にいた人間だが、その頃に雑誌なんかで目にしたBMXの大御所達と今ブッコは肩を並べる存在になって活躍していたのだ。
 13年ぶりの再会に話は尽きることなく、夜更けまで大量に飲んでバカ騒ぎをした。ナガチャンは水をひたすら飲んでいた。長い長い夜だった。
 その翌日、俺は二泊三日の一人釣り旅行に福井県に向かった。

 夕方頃に京都を出発、京都から長浜行きの普通電車に乗った。外はもう暗くなってきているので景色は楽しめない。ゆっくり揺れる電車のなかで文庫本を読みながら過ごす。1時間ちょっとで長浜に着き、ここから福井の敦賀行きに乗るのだが、待ち時間が1時間半もあった。暇で仕方ないが辺りに暇を潰せるような所はなく、また本を読んで待っていた。ようやく来た電車に乗って敦賀に着いた頃にはもう夜の11時をまわっていた。そのまま福井駅まで行ってしまう予定だったが、釣りをする為には福井駅からさらに1時間、北のはずれの三国という所まで行かねばならない。その頃にはきっと終電がなくなって三国まではたどり着けないだろうと思ったので、敦賀で釣りをすることにした。これが結果的には大正解だったのである。
 駅から降りて敦賀市の案内板を見ると、海までは5キロほどであった。歩いて1時間少しの距離だ。がしかし道が全く分からなかったので、駅の前に停まってる車のお姉さんに道を聞くと、用事もないから乗せていってあげる、との嬉しい言葉が返ってきた。お姉さんは今さっきまで敦賀の祭りで遊んでいて、友達を駅まで送ってから用事もなく暇だったそうだ。そのままレストランに連れていってもらってメシを食い、海まで案内してもらった。ずっとお姉さんだと思ってたけど、その子は俺より1つ年下だと言った。
 敦賀新港という港で下ろしてもらうと、もうすでに釣り人が大勢いた。皆アジを狙ってるようだが、あいにく俺はアジ釣りの仕掛けは持ってなかった。今なにが釣れるのかと、地元の釣り師っぽいオッサンに声をかけようと近づくと、まだ何も言ってないのに俺の仕掛けを見てすぐ「ここじゃあメバルは釣れないよ」と言った。話を聞くと、ここではメバルは梅雨時期までしか釣れないという。今狙えるのは小アジ、サヨリ、イカだという。それを聞いて「イカだ!」と思った。しかしイカ釣りには「エギ」という、木でできた擬似エサを使うのだが、エギをすっかり家に忘れてきていたのだ。手持ちの道具だけでチャレンジしてみたが一向に反応がない。やっぱりエギが必要だ、と思い、さっきのオッサンに最寄りの釣具店を聞いた。今は夜の3時だ。
 釣具店というのは深夜に営業していて、昼間は閉まっていることが多い。釣りに行く人は夜に出発することが多いからだ。夜に出発して釣具店でエサなどを買い、明け方のよく釣れる時間を狙うのが普通である。店はきっと開いてると確信して歩きはじめた。教えられた信号を左折するとすぐ次の信号があるからそこをまた左折したらすぐにある、と聞いていたのだが、一つ目の信号を左折してから一向に次の信号が見えない。長い上り坂を登りきって視界が開けると、遠くに次の信号が見えた。
 そうか!と思った。あのオッサンはてっきり俺が車で来ているものだと思い込んでいたのだろう。街灯もなく真っ暗な夜道を、遠くの信号の光だけをたよりに歩くのは怖かった。なんだか得体の知れない生き物に足首なんかをガシッと捕まれたりしないだろうか、白装束の幽霊が背後に迫ってたりしないだろうか、夜闇の中で怖くて叫びそうになりながらやっと次の信号に着いた。そこから釣具店まではすぐだった。
 その釣具店で一番安いエギは950円だった。高い。金の用意はそんなに十分じゃなかったので少々迷いながらもそれを買った。店を出ると雨が降っていて、困ったなぁと思ってじっとしていると、無愛想な釣具店のおじさんがピンク色の傘をくれた。傘を開くと、「喫煙者 マナーを守って 明るい社会」となんだかありきたりな一句が書いてあった。まあせっかくだしその傘をさしてまた夜闇を引き返していったのだが、車がこないことをいいことに道の真ん中を大声で歌を歌いながら歩いていくと、怖さも幾分か薄れ、間もなく海に戻ってきた。もう4時になっていた。夜明けの一番釣れる時間までもうすぐだ。早く準備しなければ。でも波一つない静かな海に魚の気配はなかった。釣り人は大勢いるが誰も釣れてないみたいだ。俺はさっき買ったばかりのエギを釣り糸に結び、海に放った。周囲と同じく、反応は無い。そこで京都から持参した焼酎をちびちび飲みながらゆっくり勝負することにした。
 空がほんのり明るくなった、そのときである。ちょうど干潮から満潮へ切り替わる瞬間、海面がゴーっと音をたてて動き始めた。するとそれに反応するかのように小魚が海面をばしゃばしゃ跳ねはじめた。その途端に、今まで沈黙していた釣り人たちの竿がしなり始めたのだ。俺も焼酎を飲む手を止め、竿に集中するとすぐに反応があった。明らかにイカの重みだった。隣の若いお兄ちゃんが大きなアオリイカを釣り上げた。俺のは何だろう・・・とあがってきたのは手のひらほどの小さなアオリイカだった。墨を吐ききらせてから手でつかむと、なんともいえない美しい緑がかった蒼い輝きを見せた。しばらくウットリ眺めてからビニール袋に放り込んで、また竿を振った。周りの人たちの竿は2.4メートルほどあるのだが、俺のは携帯用の1.6メートルの竿なので、エギを遠くに飛ばそうにも飛距離が伸びない。周りはガバガバ釣ってるのに、結局俺に釣れたのはアオリイカ6杯だけだった。

 しかし俺はクーラーボックスなどの準備がなかったので、それ以上釣っても困ってしまっただろう。釣った6杯をその場でナイフでさばいて、海水にサッと晒してから口に放り込んだ。コリコリしてて、噛めば噛むほど甘くなる。ゲソの部分はもう文字通り踊り食いってやつで、吸盤が口中にくっついてきた。醤油とワサビがあればなぁ、とつくづく思いながら6杯すべて完食。こんな踊り食いは、どっかの店で食ったらエギの950円以上するだろうなぁ、ということで納得して納竿、今日の釣りを早々に終えることにした。
 まだ釣れてるのになんでやめるの?という目で隣のおにいちゃんが見てたけど、やっぱそれは景色が綺麗だったから。しっかり敦賀の朝焼けを拝んでおきたかったのだ。敦賀新港にドーンと突き出た防波堤の先っちょまで歩き、敦賀湾の真ん中で朝日を拝んだ。傍らにはもちろん焼酎。知らない街での朝日の美しさはイカの数杯くらいじゃあ勝てない。イカ釣りの興奮も徐々に冷め、なんだかもう竿を出す気にもならなかったので、そのまま敦賀を観光することにした。
 ゆっくり街を見ながら敦賀駅まで歩くと、駅前にレンタサイクルがあったので借りた。一気に機動力が上がった俺はまず敦賀市の観光パンフレットを読みあさり、気比神宮という有名な神社に行くことにした。えっちらおっちら着いた気比神宮は、正直そんなにイイものではなかった。ごくありふれた神社そのものだった。
 次に向かったのは金ヶ崎宮という、金ヶ崎城跡に建つ神社だ。ここは面白かった。ここは織田信長とその首を狙う勢力、それを阻止しようとする豊臣秀吉の合戦の舞台である。その首を狙った勢力のトップ、尊良親王が秀吉に負けて切腹した舞台が、今でも残っていた。そしてここは信長を想う女がその危機を信長に伝える手紙を出した場所であることから、恋の宮、ともいわれている。山のてっぺんまで行って願うと恋が叶うというので、さして目当ての人もいないのに頑張って登ってみた。登山口に杖がいっぱい置いてあったのでさぞ険しい山道なのだろうと覚悟していたら、ものの数分で頂上まで着いてしまった。低気圧の影響で風がどんどん厳しくなってきていたのが逆に汗をかいた体を冷やしてくれて気持ちよかった。見晴らしは最高だった。敦賀湾全体が見渡せた。
 金ヶ崎宮を下りてまた自転車でプラプラしてると、敦賀市水墨画展というのがあったので入ってみた。正直水墨画のほうはありふれた感じの「滝」やら「虎」やらで面白くなかったのだが、そこは敦賀市の博物館も兼ねているようで、敦賀港完成100年の歴史展は見ごたえがあった。
 もう昼過ぎになってはいたが、ここまででつくづく「敦賀は年寄りが元気な街だ!」と感じた。どこを歩いてもお年寄りが道端で大声で井戸端会議をしていたり、昨日まで開催されていた祭の後片付けを威勢よく仕切っていたり、博物館にしても管理人のおばあちゃんが「ガッツつくで!」となぜか老舗のミソ豚カツの店を猛烈に薦めてくれたり、声がデカイし元気だし、まずその顔色が元気なのだ。いい街だなあと思った。
 がしかし昼2時頃に低気圧の接近で土砂降りになったので、今夜の宿を予約してある福井市に向かうことにした。

 福井市はなんとなく大阪の本町~心斎橋の雰囲気に似ていた。こちらは敦賀とは対照的に若者が元気な街だった。釣りをしてて寝てないせいもあってか、その活気が少々しんどく感じたので、街をちょっと歩いただけで宿にチェックインした。「ホテルそのさだ」というところだ。
 素泊まり4700円の安宿だから仕方ないと言われればそれまでだが、正直最悪な宿だった。最近ではどんなホテルでも標準装備になっている冷蔵庫と電熱器が無い。酒を買ってきても冷やせないしカップラーメンのお湯も沸かせない。部屋はユニットバスのスペースも含めて3畳ほどで狭く、シャワーの水量はちょろちょろと頼りない。一泊すれば朝と夜には歯磨きするのは当然なのに、歯ブラシは1つしかなく、髭剃りも無かった。ぐっとテンションが下がり、日が暮れるまで部屋でボーっとした。宿の案内の冊子を見て余計にぐったりした。「夫婦ふたりでやってるんです、ほら親切でしょう、客想いでしょう。けど夫婦ふたりなんで細かいところの不備はご容赦ください」みたいな内容だった。数百円の差でもっと普通のホテルに泊まれるなら、そっちを選んだほうが良かったかな、と思った。
 そんな宿で夕飯を食う気にもならなかったので、近くのスーパーに買出しに出た。するとビックリ、やっぱり魚介類が安価で豊富に揃ってるのだ。もう嬉しくてやたらと買いこんでしまった。それを持ち帰って部屋でゆっくり映画をみながら飲み食い。数時間はそれで満足だった。がしかし、やっぱり福井まで来て最後の晩がこれってのは残念だなぁと思ったので、近くにあるCasaというクラブに行くことにした。
 思ったより人は少ない。昼間に見たうるさい若者ばっかりを予想してたのだが、店内は結構落ち着いていてゆっくり会話なんぞを楽しめる雰囲気だった。そういえば今日は日曜の晩だから人も少ないわけだ。その日のDJさんとちょろっと話をし、音を聴いてみたが、皆すごくいいDJプレイで酒がすすんだ。皆さん気さくで優しくて、すごい和やかな雰囲気がそこにはあった。けど宿で一人でかなり飲んでいたのでそう多くは飲めず、2時前においとまして宿に引き返した。
 翌朝、目をさまし予約していた朝食セットを食ったが、それが旅館の朝食とは思えないほどにウマかった。失敗した!と思った。ホテルそのさだは食事に力を入れている宿だったのだと朝食で気付いたのだ。朝からワカサギの南蛮などを出してくれる宿などそうそう無い。悔やみつつ最後の味噌汁を飲み干し、もう帰り支度だ。
 けどなんだか、福井から帰るときも淋しさは無かった。今回の旅でやっぱり思い出として濃いのは敦賀だったなぁと思った。それは俺が釣り好きだったり古いもの好きだったりするのも影響してると思うのだが、正直福井市の活気は福井市でなくても味わえる、と思った。これは理屈じゃなく感覚的に感じてしまったのだから仕方ない。そんなわけで福井駅をあっさりとやり過ごして京都にずんずん突進していった。ほとんど寝てないせいで帰りはずっと寝ていた。
 京都駅に着いたアナウンスがあったとき、ものすごくホッとしてる自分がいることに気付いた。京都はやっぱり、いい街だ。