ふとした視線の先

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 いよいよ学生にとって恐怖のテスト期間に突入である。夜に突然えもしれぬ不安におそわれ目がさめ、ベッドからむっと体を起こしてそのまましばし呆然としてしまったり、あまり普通の精神状態だとは思えない日々がつづいている。

 そうして目がさめてしまったときに、手さぐりで枕元のランプをつけ、何をするでもなくただ呆然としているときのその視線の先をたどってみた。
 なんでもないどこか一点を見つめていた。それはテレビの右下角であったり、時計のデジタル表示の「:」の部分であったり、ぼんやりひかる電気ストーブの光のムラの部分であったり、カーテンレールのはしに余った白いプラ製のコマであったり。
 今でこそそういうものを見たって当たり前すぎてなにも感じなくなってしまったが、幼少の頃はきっとそこからいろんな想像をはたらかせていたことだろう。

 俺が幼少時代からよく見る夢のひとつに、自分が死んでなぜかピアノになってしまう、というものがある。死んで自分のたましいがピアノにのり移ってしまうのか、どこか頭のすみでピアノになりたい、と思ったことがあるのか、理由は定かではないがその夢をよく見るのだ。しかしまったく心当たりがないわけでもない。
 そのピアノは俺が5歳のときに家にきた。姉がどうしてもピアノを習いたいというので、両親が買ったのだ。はじめて見たピアノは、ふかく黒光りしていてとてもきれいだった。さわってみたい、と思って近づくと、姉に「ダメ!」と言ってしかられた。それが何故だか当時はよくわからなかったが、ただ傷をつけられたくなかったのだろう。俺は姉がピアノを弾くすがたをいつも後ろから見るだけで、しかしピアノを弾く姉の手元をみるわけでもなく、黒光りするピアノに映るなんだか情けない自分のすがたをずっと見ていたりした。
 ずっと見ているとだんだん今ここに立っている自分は本当は存在していないような錯覚をおぼえ、黒いピアノにふかく映りこんだあっちの俺こそが現実なんじゃないだろうか、という不思議な感覚におちいって、恐怖を感じてしまった。
 その想像の切れ端があたまに残っていて、死んだ自分がピアノになる夢などを見てしまうのかもしれない。

 今そんな想像をしていたとしたら、やばいな、自分ってアブナイな、と理性がはたらいて想像にもブレーキがかかるのだが、でもその想像があくまで自分のあたまの中で完結しているのであれば、こんなに面白い世界もないんじゃないか、と思うのだ。あたまの中ではたとえ自分がピアノになろうがイボイノシシになろうがサラダ油になろうが、まったく自由なのである。でも実際にピアノやサラダ油になろうとしはじめたら本当にアブナイなぁ。しかしまあ、それも脳内の想像にとどめておけば何ら問題はないのだ。

 たとえば、水道の蛇口からでてくる水になってみよう。もう次の行から俺は「水」である。
 ある日いつものように琵琶湖をただよっていると、突然ぎゅんと狭い水路にひきこまれた。なんだこのレンガ造りのふるい水路は、と思ったらそれは琵琶湖疎水だった。京都に向かっているのだ。
 そして県境をこえ、京都に到着。蹴上浄水場にすいこまれると、ひともみふたもみ薬品パッパという感じで加工され、晴れて「水」から「上水」になった。上にぎりや上司・上役、東証一部上場などのように、なんでも「上」がつくとエライのだ。そうしてちょっとフンゾリ返りぎみに上機嫌ハナウタまじりの「上水」、松ヶ崎ポンプあたりではなんとなく上水としての風格もただよいはじめ、いよいよ各家庭の洗面所にむけてエリート街道(まあ水道管だけどね)をぐんぐんすすむ。

 一瞬のできごとだった。期待に胸ふくらませくぐった狭き門(蛇口のことなんだけどね)、パッと明るくなった景色にかすかにオッサンの歯磨きしている姿が目にうつったかと思うと、アッ!というまに排水口にすいこまれ、あれよあれよと下水の仲間入り。リストラである。
 お先まっくら、さきほどかすかに見たオッサンの吐いたであろう痰に追いかけられ、雑菌たちにケタケタ笑われながら薄汚い下水管をひたすら落ちていく。薄れゆく意識のなかでかすかに聞こえたような気がした「わるいけど、代わりはいくらでもいるんだよ」。
 ハッと気がつけば汚水処理場だった。どうやら気を失っていたようだ。しかし覚めたら覚めたでゲスイショリの機械たちにもみくちゃにされ、またまた薬品パッパされて、苦痛に顔をゆがめながら昨日までの優雅な日々を想いおこす。「ああ懐かしの我がオフィス(浄水場)、清潔な廊下(水道管)、あれは夢かマボロシか、おとーさん(酸素)おかーさん(水素)ごめんなさい、アタシもうだめみたい・・・(蒸発)」となっていくのであります。

 そんな「水」の運命を想うと、歯磨きのときも蛇口はこまめに閉めようネ、と少しばかりやさしい気持ちになってしまうのである。シャワーはひかえて風呂にしようネ、とも思えるのだ。便所の水だってバカにしちゃあいけない。奴らは「おっきなモノをきれいに流す!」という使命を立派に果たしているのだ。かすかにオッサンの歯磨き姿・・・のはかない水のキモチとは雲泥の差である。そして俺はここできっぱりと「君も、水を悲しませちゃあいけないよ」と、仙人のような顔をして言うのだ。

 仙人になった俺は来週あたりから一人テント旅に出ることにした。場所は、琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島「沖島」(おきしま)である。周囲7キロのちいさな島なのだが、ここは日本で唯一の、淡水湖のなかの有人島なのだ。淡水湖のなかの有人島というのは世界的にみてもめずらしいそうだ。その沖島の水辺にテントを張って、焼酎でも飲みながら水面のキラメキに癒されてこようと思っている。
 水はすごい。だって俺の大好きなお魚をみーんないっぺんに育ててるんだからねぇ。まさに「母なる水」なのである。
 デジタル時計の「:」の点滅をみながら、ふたたび俺は仙人の顔になって「水を悲しませちゃあいけないよ」と、ちっちゃな部屋のかたすみでボヤいてみたのだった。