あさひ

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 去年の5月は毎週のように、日本海に釣りに行ってた。夜の12時頃に家を出発して、海に到着するのは深夜3時前。途中で釣りエサ屋に寄ってエサの冷凍エビを買って、その週の好釣ポイントや釣果なんかの情報を仕入れてくる。がしかし、たいてい行き慣れた堤防なんかに行ってしまう。公衆便所の有無や、手を洗える水道の有無、釣れなかった時に釣り以外の楽しみがあるか、例えば旨いラーメン屋とか、珍しいものが手に入る漁港近くの市場とか、景色のいいハイキングコースとか。そういうことを考えると、若狭の音海(おとみ)という所にある大堤防が一番のお気に入りだ。でもまぁ考えてることは皆同じのようで、週末はたいてい釣り人であふれてた。だから深夜3時到着は必須条件なのだ。しっかり場所取りせねば。
 この音海大突堤は前述したように人気ポイントで、定番のアジ、チヌ(黒鯛)、アオリイカなどの他にも、はぐれ独り者のカンパチやヒラマサがごくまれに釣れるという。でも俺らに釣れるのは小アジやカサゴ、小メジナくらいだった。けどいつも大満足して帰れた。それは、どでかい朝焼けが見れたり、釣れた魚をその場で捌いて刺身にしたり七輪で焼いたり、準備してきた弁当がウマかったり、その地元の釣りジイちゃんの話が妙にスケールでかくて面白かったり、ちょっと寄ったラーメン屋のラーメンは普通だけど薬味で置いてある干し大根キムチが絶品だったり、帰りに新鮮な殻付き生牡蠣や名前の分からない魚介類を市場で買ったり、知らない道を車で走って迷いながら帰ったり、家についた後の心地よいだるさであったり、その全てが釣りに行く楽しみだからだ。すごく贅沢な1日に、大満足だった。

 その堤防で、大阪からもう20年近くも毎週ここに通って釣りをしてるっていう初老のおじさんと喋った。20年間ここはなーんにも変わってないのだという。そのおじさんは「変わらないからこそ、ここは贅沢な場所なんだよ」と言った。市街地では空き地があればコンビニを建てたりガレージになったり公園ができたり。空き地が空き地のままである贅沢を知らない、昔子供たちはそこで暗くなるまで走り回って遊んだんだよ、と。

 僕も同じような経験がある。僕が小学生の頃は、毎日のように山や川や田んぼのあぜ道で遊んだ。川を遡って歩いていったら最後はどうなってるのかを知りたくて、小学校の家庭科で作ったナップサックを皆同じように背負ってお菓子屋さん「もりぐち」で買ったおやつをそのナップサックに詰めて、短パンにゾウリ履きで川をのぼっていったりした。
 田んぼのあぜ道ではザリガニがいっぱい捕れた。たまにゼニガメなんかもいた。カエルもいっぱいいた、というか多すぎて鳴き声がゥワンゥワンゥワンと聞こえてしまうほどだった。
 家のすぐ近くの山には大きなクヌギの木があって、樹液がいっぱい出てて、カブトムシもクワガタもカナブンもスズメバチもいっぱい群がってた。夕方に、家の冷蔵庫からとってきたミニゼリーなんかをその木にひっくり返しておくと、次の日の朝にはデップリと太った大きなカブトムシとかノコギリクワガタなんかがそのゼリーを食ってた。カナブンなんかは大量にいた。そこで捕った虫にタコ糸をくくりつけて空に飛ばし、「空中散歩!」なんて言いながらヘラヘラして毎日を過ごした。
 しかしそのクヌギの木はもうない。クヌギの木のあった山ごと削られて、なぜかアスファルトの遊歩道ができた。工事が始まって山がどんどん削られていくのを見て僕らは焦り、いろいろ考えた結果、ダンボールの切れ端に「大事な木を殺すな!」とか「ぼくらの山をこわすな!」とか書いてその周辺の木に紐でくくりつけた。が、まったく無視されて工事はどんどん進んでいき、ついにクヌギの木も山の土ともども削られて無くなってしまった。そこに突如、こぎれいな遊歩道ができた。でも、そんな物いらない。
 よく探検した川は、コンクリート製の真四角なドブ川にされた。おかげで土からしみ出す水が完全に遮断され、水量は以前の10分の1以下になった。もちろんその川から魚は姿を消した。もうそこで小学生が探検ゴッコして遊ぶことはできない。ドジョウ捕りもサワガニ捕りもできない。
 田んぼもすべてコンクリートで真四角に仕切られ、ザリガニもカメもゲンゴロウも何もいなくなった。カエルの鳴き声も静かになった。

 自然を自然のままとっておく事の贅沢さを知らない大人が多すぎる。莫大なお金を使って、贅沢な自然を壊す。莫大なお金を使って子供から遊び場を奪い取る。そして国は財政難なんだと。森を切り崩して造った「いこいの広場」なんていらない。きれいに護岸された川を、綺麗だとは思わない。うーん、言いたい事と話題がズレてきたな。

 金なんて使わなくてもすでに身近に贅沢なものはいっぱいある。金のかかることは贅沢じゃない、という意味ではない。20万近くするスノボ一式を持ってスキー場に行くのもいい、ボーリングもカラオケもビリヤードも楽しいし、高級バーで一杯数万するウイスキーを飲むのもすごく贅沢だ。それが悪いと言ってるんじゃない。要は心が贅沢しているかどうかだ。
 先日、以前バイトしてた居酒屋に久しぶりに顔を出した。楽しい酒をしこたま飲んで閉店時間になったので店を出ると、そこで顔見知りのお客さんに「今から俺ん家で飲み足そう」と誘われたのでついて行った。そして深夜からその人の家のリビングの真空管アンプで分厚いクラシックを聞きながら色々話をした。その人は以前千葉に住んでて、一流企業に勤めてた。しかし出張で京都に来たとき、比叡山から昇る朝日を見て京都に惚れこんでしまい、会社を辞めて京都に引っ越してきたのだという。今は中国語の先生をしながら細々とバイオリン奏者としての活動をしている。正直金銭的には苦しくなったけど、それでも今の暮らしが幸せで仕方ないという。
 その人の家のリビングからは、完璧なまでに美しい朝日が見えた。その時飲んでたのは安物のウイスキーだったけど、ものすごく贅沢だった。そしてその美しい朝日は僕の家からも見える。世界中どこでも朝日は見える。ただ、見ているけど見えてなかったものがあるんだな。そんな贅沢がまだまだいっぱい残ってるんだろうな。