僕が幼少期を過ごした集落には珍しい風土虫がいた。それは「ツチヌギ」といって、オウド色をしていて、マツタケを縦に真っ二つにしたような形をしている。ヒルのようにヌメヌメしてて、大きいものは全長20センチくらいあると聞いたことがある。
ツチヌギを見てしまうとその晩は必ず寝小便をしてしまうという事で恐れられていた。でもツチヌギの話をほとんど耳にしないのは、「見た」と言うと寝小便してしまったことがバレるからだと今になって分かった。そして、歳が大きくなるにつれツチヌギを見ることは無くなっていくという話であった。
ツチヌギの話を初めて聞いたのは、幼稚園生の頃。その晩は、近所の老夫婦がうちの親父とテーブルを囲んで酒盛りをしていた。僕は酔っぱらいの大声とかやかましい笑い声が嫌いなので、隣の部屋でテレビを見ていた。
そこに、トイレから戻る途中のおじさんが酔っぱらった顔で入ってきて僕の隣にあぐらをかいて座った。「ぼっくりちゃんはツチヌギを見たことあるか?」と聞かれ、全く知らなかったので首をぶるぶるっと横に振った。すると赤い顔のおじさんはグッと顔を近づけてきて急に真顔で「ツチヌギってのはこのくらいのデカさでな、濁った黄色い虫なんじゃ…」と言って手のひらを大きく開いてみせた。続けて「ツチヌギを見た晩には絶対寝小便たれるから気いつけや。おじちゃんもガキの頃に何回か見て、その度に寝小便たれとったなぁ!」と言ってニタッと笑い、酒盛りに戻っていった。
寝小便なんかそれまでにもほとんどしなかった僕は「そんなもんおらんわ」と思ってその時は信じなかったけど、その年の春、もうじき小学校に入学するという頃に見てしまった。
その頃、親父とよく一緒に風呂に入っていた。親父はいつも僕より先に風呂から上がる。親父が出たあとは一人で浴槽に浸かってしばらくカビだらけの天井を眺めたりしていた。その時ふと窓に目をやると、すりガラスのサッシが細く開いてて、その隙間からいかにも不健康な色味のぬるっとした生き物がこの風呂場に入り込もうとしていたのだ。僕は驚いて小さく「わっ!!」と言ってしまい、それに反応したのかスルリと驚くほど速く外のほうに姿を消した。
すぐ風呂から上がってその事を母親に言うと「なにそれ?」とほとんど構ってもらえなかった。この集落に引っ越してきたのはつい最近なので、両親ともツチヌギのことは全く知らないようであった。
その晩「まさか俺が寝小便なんかするか!」と思いつつも不安で眠れなかった。二段ベッドの上の段には姉が寝ている。僕は下の段で、じっと上を見据えたまま不安をつのらせた。でもいつの間にか寝てしまっていた。
ひやっとした感触をわき腹に感じて目が覚めた。布団はすっかり蹴っとばしてしまっていて、パジャマから腹が見えていた。なぜか全く体に力が入らない。豆電球の暗さに目が慣れてくると、わき腹のひやっとした感触の正体が分かってゾッとした。ツチヌギだった。薄暗いなか僕の腹にヌメヌメと這い上がり、やがて下腹部のほうに這っていってパンツの隙間に半分ほど体をすべりこませていった。僕の体はその間も全く脱力しきっていて動けない。
パンツに三分の二ほどすべりこんだツチヌギは動きを止めた。すると今度はそのヌメヌメの体をべろーんと薄く薄くのばして僕の下腹部にぴったりと張り付いたと思ったら、そのぴったり張り付いた体をビクン!と大きく震わせた。
そしたらその振動に呼応するかのように僕の膀胱はそこで放尿してしまった。脱力しきってる体ではどうにも止めようがなかった。ぐっしょりと濡れてしまった不快な布団に横たわったまま僕は声が出ないまま泣いた。腹の上をヌメヌメと去っていくツチヌギの感触がしたけど、そんなことどうでもよかった。ただ悔しくなって泣いていた。
ここで記憶は途切れている。この後たぶんそのまま寝てしまったのだろう。
それ以降にツチヌギを見た記憶は無い。もうこの歳になってツチヌギを見ることも無いと思う。
今日、風呂に浸かっていて、細く開いた窓サッシの隙間を見てふとツチヌギのことを思い出した。しばらく隙間を睨んでみたりしたけど、もちろんツチヌギの姿を見ることはもうない。