んなわけないやろ。
いよいよアタマが変になったんか??
…そう思われるかもしれませんが。
いや、もともとアタマは変か。
本や新聞を読んでるとき、スマホで文やメッセージを読んでるとき、あらゆる文章を読んでるとき。
なんか、文字がしゃべってる感覚ってありませんか?
勝手に著者の声をアタマが想像して、その声で話しかけられてるような感じ。
声を知ってる著者もあれば聞いたこともない著者もいるのに、スラスラとぐんぐんと文章にのめりこんでいく時ってのは、著者がしゃべってくる感覚があるのです。
きっと私ぼっくりだけじゃないはず。
意識してないだけで、そういう感覚あるんじゃないでしょうか。
人間クサい文章に多い。
文章にのめりこみ読み込んでいくときに、この感覚は多い。
どんな文章でも、たとえば小説でもブログでもエッセイでもなんでも。
のめりこんでいるとき、声がしています。
なにかを書いている人はいつも、より引きつけるように、引き込めるように、楽しいように、よく伝わるようにと書いていることでしょう。
私も少々は文章の勉強をしたことがあるし(20年くらい前の話か。笑)、文章におけるセオリーの存在を知っています。
だから例えば「です・ます」なのか「だ・である」なのか、文章全体で統一しましょうだとか。
「~ます。」の次の文では「~です。」とか変化をつけて、「ます。」「ます。」「ます。」と連続しないようにしましょうとか。
…うーん、うっせぇなぁ。
知ってはいるし意識してそう書くことも多いけど、やっぱりセオリーはただのセオリー。
声の聞こえてくる文章ってのは、そうして整いすぎたものよりも口語調だったり語尾が荒れていたりと、ちょっと人間クサさのある文章のもつ特徴である気がする。
…うん、めっちゃ検証したわけではなく、あくまで「気のせい」かもという程度の感覚なんだけども。
文章のリズムがおしゃべりと似ている。
文章って、リズムがありますよね。
1文の長さだったりとか、句読点の位置とか、改行の位置とか、空白とか、そういうもので調整されているんだけども。
もはや「しゃべる文章」を書ける人ってのは、調整している感覚がない。
もう指先のタイピングで、指先がしゃべっているのですよ。
たまーに私も執筆がぐんぐん進むときにその感覚がわかる気がするけど、まだ「気がする」レベル。
しかも、気がしていたらダメですよね。
指先がしゃべっていて、調整してる感覚がないんだから。
まだまだだなぁ…と思うのです。
さて。
どうしたら、そうして指先がしゃべるように執筆できるのか。
…もうこれは、書くしかないんですよね。
書いて書いて書きまくる。
そうすると、きっと文章は変化してくるのでしょう。
ある尊敬するライターさんは、「息をするように書ける」と言っていましたよ。
息をするように文章が出てくるんだと。
すごいなぁ、いいなぁ。
やっぱり毎日書く、習慣化して書くというのは大事で、毎日なにげなくしゃべるのと同じように指が進むまで、書きまくるしかないんでしょうね。
この感覚は昔、20年前にブログというものに出会って、楽しくて楽しくて書きまくっていたときにはあった。
指がしゃべる。
ちゃんと文章もしゃべれていただろうか。
どんなものを書いていたんだろ…と久々に気になって、読んでみたら。。。
…まあヒドい。笑
だからやっぱり文章のセオリーというものも大事だし、そういう勉強は一応するべきで、習得したうえで崩す。
芸事の世界でいう「守破離」(しゅはり)のようなものかもしれない。
教えを「守」り習得し、他の教えや工夫もとりこんで「破」っていき、自分なりの型を築いて流儀から「離」れていく。
やはりこの順番でマスターしていかんとアカンのですかね。
めんどくさいなぁ。笑
もう雑でもいいので書くわ。
まぁ、もっかいくらいは文章のセオリーを学び直したとしても。
もう雑だろうが何だろうがいいので、書くわ。
そういう結論にたどり着いたのでございます。
結局のところ書いて書いて書きまくることで、「離」だけに突きすすんでいくようなイメージ。
そーんなに日々おしゃべりのなかで考えてないし、それでも言葉は出てくるわけだし、ちゃんと伝わるわけだから。
しゃべるように書く。
そしてとにかく書く。
今日はテーマも描かずテキトーにあたまに浮かんだことを書いてみたんだけど、やっぱりこういうことになります。笑
だから、やっぱり本当はセオリーを守るのがいい。
でもこのスタイルで書き続けてみれば、ひとつの型ができるだろうか。
そんなことを継続して試しつつ、やっぱり文章セオリーの復習もして、書きまくってみますね。
今は考えずに書いたらこんな文章になりましたよ、という記録。笑