たいしたことではない、書くほどのことでもないかもしれない。
でもこのソワソワ感をなにかに残しておきたいと思ったのだ。
それは期待なのか焦りなのか、それすらも分からないのだけど。
カンタンにいうと、いま「考えている」期間なのだ。
あえて動きを止め、考えている。
なにを考えるべきか?を考えることから始まり、途方もないところに思考が行きつくこともある。
なぜそんなことをしているのか。
僕は過去から、こうして考える期間のあとに大きくモノゴトを動かしてきたから。
まあ次のモノゴトが大きいかどうかは分からないが、いまは考えているのである。
うどんがすこぶるたのしい。
一日の大半、うどんをさわって過ごしているわけだ。
これがまた楽しくてたまらない。
「仕事が楽しすぎるなんて変だオカシイ狂ってる!!」と文句をいう人もいると思うが、楽しいんだから仕方がない。
最近はとくに自分の店の「名物うどん」なメニューを作りたくて、ワクワクして取り組みつつウマイーとかイマイチーとか言いながら過ごしている。
まあ内に秘めたるメニューばかり作っても仕方がないので、数量限定メニューというかたちで世に出しては、お客さんにウマイーとかイマイチーとか言ってもらってる次第でございます。
夏野菜の揚げ浸しぶっかけ
夏のうちに「夏野菜の揚げ浸しぶっかけ」なるメニューをやろうとしてたのにモタモタしちゃって、「夏のなごり野菜の揚げ浸しぶっかけ」になっちゃったけどリリースしたら、かなり好評であった。
野菜それぞれの特性にあわせて素揚げの温度や時間をきっちり調整しながら揚げ、一晩それをダシに浸して味をいれる。
シャキシャキ食感を残すもの、しんなりとさせるもの、ジュワッとジューシーに仕上げるもの等々、そのお野菜の生きる道!というものがある。
ちゃんと野菜の個々と向き合った揚げ浸し、そしてうどんとの相性をじっくり考えた。
これはもちろん来年の夏の布石になったよなぁ。
じゅんじゅんつけうどん
そしてお次は「じゅんじゅんつけうどん」だ。
ここ滋賀県には郷土料理「じゅんじゅん鍋」というものがある。
要はスキヤキ鍋なのだが、滋賀のお肉や野菜をふんだんに使ったスキヤキで、お肉を焼く音が「じゅんじゅん」と聞こえたことから名付けられたとされる。
コロナ全盛のときに、県内を旅行しよう!なる企画「滋賀旅」という割引制度があり、それを利用して県内をぐるぐる旅行した。
そのときに、滋賀県北部の高島市で食したのが、僕の初めてのじゅんじゅん鍋。
その日以降、うどんメニューにできないかと、ずーーーっと考えてきた。
その由来のまま鉄鍋でじゅんじゅんと音をたてるスキヤキ鍋スタイルでもよかったのだが、名物メニューを目指すとなればオペレーションもかなり慎重に考えていかなければならない。
だからといって最優先すべきは当然ながら「おいしい!」であり、そして食べた人の満足感だ。
実に3年もの試行錯誤の結晶が、この【じゅんじゅんつけうどん】なのである。
これは胸を張って推していきたいと思える、そんなうどんができたことが嬉しい。
あとは、それを選んで食べてもらう努力だな。
商売は売上だけが全てではない
こんなことをいうと、甘い!だとか、夢見がち!お花畑!とか言われることもあるのだが。
そんなことはぜーんぜん構わない。
僕のやっていることは、僕のものだ。
そう、商売は売上がすべてではない。
2023年夏はとくに、それを実感させてくれた。
店を構えているから、そこに集ってくれる人がいる。
売上だけでなく、人との出会いと交流が生まれるのである。
毎日来てくれるご近所の常連さんにはじまり、週1のお休みにかならず来てくれる常連さん、月1のルーティンにしてくれている常連さんなど、そんな常連さんたち。
そしてまた、なかなか定期的には来られないけども、僕や妻に会いにきてくれる知人友人たち。
僕はこうしてブログやSNSや通販なんかでネットでも発信をしているわけだけど、それを通じて知ってくれた人たちとの嬉しい対面も、この夏たくさん経験させてもらえた。
お金なんかには到底どうしても換えられない宝物、そんな繋がりの切欠や軸となっている。
これは僕が店を構えていなければ、なかなか難しかったであろうと思う。
うどん屋をやっていて良かったなと思うのは、なにも売上だけではないのだ。
妻とともに
妻はジナンの出産と共にいちど店を離れて以降、コロナ期のお客様数の大幅減もあり、他社で働いてもらっていた。
それが今春からお客様の戻りもあり、兼業しながら徐々にうどん屋のほうに復帰してもらい、秋には完全専従にもどった。
いまは毎日、妻といっしょに働いている。
コロナ期は僕ひとり完全ワンオペでうどん屋を切り盛りしてきたが、やはり人手がほしい瞬間にそれがなく、クレームをいただく結果になったり。
自分の想い描く理想のサービスもできず、どうしても効率を優先せざるを得ない、切り捨てなければいけないサービスがたくさん出てきて…
歯がゆさと不甲斐なさと無力感に打ちひしがれるような毎日を送るにつれ、あまりいただけない鈍感さを習得したりもした。
コロナの終息感がでてきた2022年から、パートさんを雇用して手伝ってもらった。
ホントに1人→2人になったことの効果は大きくて、諦めていた多くのサービスを復活させることができた。
コロナ期にはお客さんに、お食事後のお盆を返却棚に運んでもらっていたのが、ちゃんと基本的なフルサービスを復活させられたことに感激フルフルの毎日であった。
今はそこに妻も戻ってきてくれたわけで、きちんと機能すれば、僕のおもう理想の「ちいさなお店」のすべてを実現できるであろう。
本来ずっと目指してきた、うどんだけを売るのではない「虹を売る」わが店の姿がやっと具現化できそうな兆しが見えてきた。
もうワクワクが止まらないのである。
そしてそれだけではない。
妻がいつもそこにいる安心感は、計り知れないものがあった。
目の前でおこる事柄をいつも共有できるって、すばらしいのだ。
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人はいつも誰かに接して生きている、それは家族や友人知人や同僚や趣味興味でつながっている人、そして世の多くの無関心同士の関係。
その中でもっとも自分を認めてほしい存在は、まず家族じゃないだろうか。
その頂点にいるのが、妻(配偶者)じゃないだろうか。
その妻が、いつも傍にいる。
価値観もほぼ同じくして結婚し、相反する部分はそのまま互いの足りないものを補完する関係である。
この人に認められる言動をもって生きていれば、もうそれが自分の承認欲求のほぼ全てではないだろうか。
これは24時間をずっと共にするようになって、初めて感じたことであった。
もしかして…人生最大の気付きかもしれないなぁ。
「考える」は続く、
脳みその大半をうどんのことに割いて過ごしているが、それだけではない。
考えはじめると、止まらなくなるのだ。
つくづく脳みそに広がる無限の領域ってすごいなぁ、と思う。
さて、もうすぐ僕ぼっくりは42歳になる。
平均寿命を考えるとこれで人生の半分にあたり、折り返したことになるのだ。
半分地点でも焦れないのが、夏休みの宿題を8月31日にやる僕らしくもあるが…
ここ最近思うのは「もうそんなに新しい挑戦を実らせられないだろうな、成し遂げられないだろうな。」という、一見ネガティブな考えである。
しかしこれは僕のなかでネガティブではなくて。
つまりは、今まで40年超でやってきたことを活かすほうが良い、という考えだ。
いまゼロから新しいことをするには40歳というハンデがあるが、すでにやってきたことは40年のアドバンテージがある。
だからここで、今までやってきたことを細かく思い出す必要があった。
ぼっくり40年
せっかく時間をつかって過去40年やってきたことを思い出すんだから、忘れないようにココに残しておく。
- カブスカウト・ボーイスカウト
- 水泳
- サッカー
- 自転車(ロードバイク・マウンテンバイク・トライアル・自転車旅)
- クラブDJ(テクノ・ハウス・ダブ・アブストラクト)
- 島旅・田舎旅・単独行
- カメラマン
- サラリーマン(物販サービス業)10年
- うどん業界10年
- ブロガー23年
もうこの延長になにかを成そうとするほうが、想定する成果への距離感が分かっていて実現性が高いんよね。
じゃあ新しいチャレンジをしないのかというと、そうではない。
やっぱり新しいチャレンジをしないと自分に新しい風が吹きこまないんで、チャレンジはすべきかと思う。
でもそれはいずれ今までやってきた事と結びついていき、経験値を積みつづけた分野で結実していくのだろうと予測している。
なので、まあ結局よく言われる「バランス」なのだが。
僕は「うどん5:経験済み3:挑戦2」くらいで進んでいこうと思っている。
この「挑戦2」が結果として、うどんやその他の特技に活きていくという考え。
あとやはり残り時間のことを真剣に考えないといけない。
平均寿命のおよそ80歳まで、あと半分地点。
だが体がちゃんと動くのはいつまでだろう、気力があるのはいつまでだろう。
そこを延ばすためには、健康にもどんどん投資をしていかなくてはならなくなった。
今までとことん目を背けてきた部分だ。
もうこれからは、そうもいかない。
ちゃんと考えるのだ。
お金の話はもういい。
ここまで、いま考えていることを書いてきたが。
つくづく「お金」を行動基準に入れていないことに気がつく。
もちろんお金は生きていくうえで必要だし、それは自分だけでなく家族のためにも重要である。
お金の勉強はしている、実践もしている、ちゃんと増やしている。
けど【お金】を目指すのはやっぱり違うなと。
「お金は墓場に持っていけない」とは言うが、まったくその通りで。
なにが大事なのかといえば、思い出や、自分が自分を認められることではないか。
自分を認められるのは、認められたい人に自分が認められることなのではないか。
僕にとってそれは妻であり、そして次に子供たちである。
ここまで読んでもらっているあなたには申し訳ないが、僕は、妻と子供たち以外には認められようがどうだろうが関心がない。
妻と子供たちに認められるため喜ばせるために、地球上のその他の人たちにちょっとだけ認められにいく、それだけである。
そんなことを、ふと思い立って向かった福井県の海をまえにして、竿をにぎりながらも魚の反応にはほぼ無関心の僕はいま1匹も釣れずにいる。
それでいいのだ。